ドイツはなぜ欧州憲法をめざすのか


.“Europas Seele ist die Toleranz.“(欧州の精神は、寛容の心です)

.“Ich moechte aus diesem Haus nie wieder ausziehen. Es gibt keinen besseren Platz fuer unser Leben als unser gemeinsames europaeisches Haus.“ (私はこの家を二度と離れたくありません。我々の生活にとって、この欧州という共同の家にまさる場所はないのです)

これは、アンゲラ・メルケル首相が、今年1月17日にストラスブールの欧州議会で行った演説の一部です。EU(欧州連合)の加盟国は、持ち回りで議長の役割を務めますが、この時はドイツが議長国になっていました。

首相は演説のテーマを、「EUはなぜ欧州憲法(Europaische Verfassung)に関する条約を必要とするか」という点にしぼりました。

EUは、中東欧の国々が加わることで、加盟国の数が増えたことから、意思決定のスピードアップや、欧州共通の理念を盛り込んだ、欧州憲法の制定をめざしています。ところが、2005年にフランスとオランダで行われた国民投票で、憲法の制定が否決されたため、計画は暗礁に乗り上げています。

メルケル首相は、「このプロジェクトが成立しなかったら、歴史的なチャンスを逃がすことになります」として、2009年までに憲法制定のめどをつけようとしています。

フランスとオランダ国民が、欧州憲法にノーと言った背景には、政府の説明不足がありました。

いま西欧では、「工場などが、労働コストが安い中東欧やアジアに移されて、将来自分たちの仕事がなくなってしまうのではないか」という不安を持つ人が増えています。

欧州憲法は、こうした「経済グローバル化」の弊害とは直接関係ありません。ところが、フランスやオランダでは、欧州憲法の内容を十分に理解せず、憲法をグローバル化の象徴と思い込んで、反対票を投じた人が多かったのです。

また、フランスとオランダの政府が、複雑な内容を持ち、国民投票にはそぐわない欧州憲法の是非について、全有権者に投票させたことも、慎重さを欠いていたと言えます。ドイツ政府は、欧州憲法が人々に受け入れられるように、広報活動を強化し、制定のための手続きを変えることを検討しています。

 なぜメルケル首相は、欧州憲法の制定に積極的なのでしょうか。その背景には、ドイツが第二次世界大戦で欧州に大きな損害を与えたことに対する、深い反省があります。メルケル氏はストラスブールで述べています。

「欧州の精神が寛容の心だということを学ぶために、何百年もの歳月がかかりました。特に、(第二次世界大戦という)憎しみ、荒廃、破壊に満ちた最悪の事態が起きたのは、つい最近のことです。しかもこの悲惨な事態は、私たちドイツ国民の名の下に、起きたのです」。

 欧州憲法の草案では、「人間の尊厳を守ること」(die Achtung der Menschenwurde)という言葉が、重要な位置を占めています。具体的には、死刑や拷問、強制労働を禁止し、人種や性別、宗教などによる差別を禁止するものです。

これは、ドイツの基本法
(Grundgfesetz)に使われている「人間の尊厳を冒してはならない(Die Wuerde des Menschen ist unantastbar)」という言葉から来ています。そこには、ナチス・ドイツがユダヤ人や他民族をガス室で虐殺するなどして、人間の尊厳を踏みにじったことに対する怒りがこめられています。欧州憲法の基盤は、「第二次世界大戦のような事態を二度と繰り返してはならない」という反省なのです。

 米ソ間の対立が終わり、鉄のカーテンが崩壊した後の欧州は、過去2000年間で最も平和な状態にあります。ドイツは、EUのメンバーとして深く信頼されており、周りに敵国が一つもありません。

ドイツ人は、通貨政策という重要な権限を、欧州中央銀行という国際機関に譲り渡し、多くの国々とユーロという共通の通貨を使っています。シェンゲン協定を結んでいるフランス、イタリア、オーストリアとの間では、国境でのパスポート検査すら廃止しました。欧州では古代、そして中世からいくつもの征服戦争が繰り返されてきたことを考えると、現在のように平和な状態は、とても珍しいことなのです。

 東ドイツ人だったメルケル首相は、ストラスブールの演説の中で、ドイツ統一を「この地球上に平和が実現された、最も印象的な例の一つ(eines der beeindrueckendsten Friedenswerke auf dem Planeten Erde)」と呼びました。

彼女は、ソ連支配下の社会主義国で育っただけに、国々を分断している垣根が取り除かれ、加盟国がエゴイズムを捨てて譲歩しあうことの貴重さを、人一倍強く感じています。メルケル首相が、「欧州という共同の家にまさる場所はない」と言ったのは、そのためです。

 戦後西ドイツの歴代の首相は、アデナウアーやブラントを始めとして、欧州の統合を進めることに積極的でした。

ドイツが独り歩き(
Alleingang)をしないように、EUやNATO(北大西洋条約機構)などの国際機関に身を埋め、周りの国々と共同歩調を取ることを、国の基本方針としているのです。ドイツの政治家の中には、「欧州は究極的には、一人の大統領を持つ、事実上の連邦を形成するべきだ」と考えている人すらいます。

ドイツはフランスとともに、「イラク戦争は中東の秩序を破壊する」として、米国のイラク侵攻に真っ向から反対し、話し合いによる解決を強く求めました。そうした訴えを無視してイラクを征服した米国は、今も治安を回復できず、数万人のイラク市民、3000人の米兵が犠牲になっています。こう考えると、ドイツがめざす「ソフトパワー・欧州」は、ますます説得力を持ってきたと言えるでしょう。

 17年前から現地で、ドイツが「欧州合衆国」の一員として統合されていく歩みを観察している私は、かつて敵同士だった国々が、未来へ向けて協調する姿を見て、羨ましさを感じることがあります。現在のアジアでは、日本が円を放棄して、中国や韓国と同じ通貨を持つことすら、難しいでしょう。

欧州とアジアでは政治的、経済的な背景が異なるため単純に比較することはできませんが、地域統合によって各国のナショナリズムを減らそうというドイツの試みは、未来に希望を持たせる実験として、大いに評価できるのではないでしょうか。

NHKドイツ語会話 2007年4月号

筆者ホームページ http://www.tkumagai.de